「漢方精撰百八方」 3

   21.[方名] 香蘇散(こうそさん)

〔出典〕和剤局方(北宋、国定処方)
〔処方〕香附子4.0 生姜3.0 陳皮2.5 蘇葉1.0 甘草1.0
〔目標〕神経質、気鬱、倦怠感、頭重頭痛、食欲不振、魚肉中毒による発疹、胸部閉塞感、悪心、腹痛、更年期障害。
〔かんどころ〕本方は発表の気剤の代表であって、気をめぐらし発汗によって病毒を排除することを主眼とする。故に著しい全身衰弱、すでに自然発汗のあるものには用いない。

〔応用〕最もよく応用するのは感冒である。熱はそれほどなく、頭痛、食欲不振があって気分がすぐれず、平素胃腸の弱い人のカゼによい。葛根湯類でもたれる胃腸型のカゼや夏カゼにしばしば奇効をみせる。また気をめぐらせる効を応用してノイローゼによる生理不順、ヒステリーや血の道症、更年期障害の神経症などの官能疾患にも効果をみせる。気鬱による下血には当帰3.0を加えて、よく柴胡剤、瀉心湯類、建中湯類で効のない腹痛に利用する。常習頭痛で適応があれば川芎、白芷1.5を加えてもよい。
 本方は魚の中毒による発疹や蕁麻疹にも卓効があるが、蘇葉は新しく香りの高いものを用いなければ効かない。

〔治験〕私自身の経験であるが、数年前、カツオの刺身を食べたあと全身に発疹が現れ胸内苦しく肌は焼けるように痒く、嘔吐も下痢もないが不安でたまらなくなった。平素こんなことはないのであるが、明らかにカツオの中毒とみたので煎ずる時間も待てず、手許にあった本方のエキス錠を10錠(約二グラム相当)冷水コップ二杯でのんだ。たちまち気分が楽になり、三十分後には皮膚にいくらかの紅斑を残して、諸症すべて消失した体験をもっている。

〔類方〕正気天香湯(しょうきてんこうとう)
〔処方〕香蘇散に烏薬3.0 乾姜1.5を加味
〔目標〕気痛を治す。香蘇散の証で痛みを発するもの
〔類方〕行気香蘇散(こうきこうそさん)
〔処方〕香附子2.5 陳皮2.5 烏薬2.5 羗活2.5 川芎2.5 蘇葉2.0 麻黄2.0 枳殻2.0 生姜2.0 甘草2.0
〔目標〕 生冷による食傷、腹痛、感冒、急性リウマチ、肩関節痛

石原 明


   22.〔方名〕 五物大黄湯(ごもつだいおうとう)

〔出典〕東洞家塾方(吉益東洞)
〔処方〕地黄6.0 川芎5.0 桂枝4.5 甘草1.5 大黄1.0
〔目標〕瘭疽(ひょうそ)の初期(内服および外用)、脱肛および痔の痛みに外用
〔かんどころ〕瘭疽の専門薬。初期のうちなら切らずにすむ。

〔応用〕四肢のユビの急性化膿性炎症すべてに適する。瘭疽は代指といい、初期のうちなら本方に限る。夜になると拍動痛を感じ、ついでに圧痛があり、指の腫脹、発赤、激痛を訴えて眠れない。手を吊って安静にすると楽であるが、仕事をしたり下にさげると苦痛が増すという程度なら本方を内服する一方、濃煎したもので患部を温湿布するか、玉子療法を行うとよい。とくに冷え性で便秘がちのものには本方の内服が最適である。
 瘭疽の玉子療法は民間療法であるが、奇効があるので一度は試みるべき価値がある。玉子はニワトリでもアヒルでもよい。指が入るだけの穴をあけて患指をなるべく深くさしこむ。もし曲げられなければセロテープなどで中身が出ないように目張りをし、台か机に上腕を密着させ腕を柱か壁にもたせかけ、楽な姿勢で眼よりも高く静置する。こうして三十分ほどすると一時痛みが増すが、そのままなるべく長時間続けると玉子の中が腐敗臭になればもう治っている筈である。あとで皮膚がひとかわむけるが、初期のうちならこれだけでも治る。万全を期して本方を内服すればそれにこしたことはない。玉子を用いないなら、本方を濃煎した熱い益で温湿布を続ける。
 また、外用として脱肛や痔の痛みにも、温湿布を利用すると楽になる。

〔治験〕私はいつも瘭疽には玉子療法と本方の内服を併用するので、どちらの方が効くのか比較したことはない。腱や骨にまで炎症が波及している場合は無効である。珍談をご紹介すると、先年、名古屋で漢方外科について講演した時、何を間違えたかウッカリ本方のつもりで歯痛や口内糜燗に使う桂枝五物湯を発表してしまった。後日ある薬局から問い合わせがあり、瘭疽に桂枝五物湯を与えてから本をみたら全く適応が違う。青くなって訪ねたらケロリと治っていたというのである。これには全く汗顔の至りで返事を書く気もなくなったが、考えてみるとこの二方の主薬は地黄と桂枝らしい。とんだところでよい勉強をした。

石原 明


   23.〔方名〕散腫潰堅湯(さんしゅかいけんとう)   

〔出典〕万病回春(龔廷賢)
〔処方〕黄柏、黄連、黄芩、芍薬、当帰、竜胆、柴胡、升麻、知母、葛根、桔梗、瓜呂根、三稜、莪朮、連翹、昆布、海藻、生姜 各1.5
〔目標〕頸部腫瘍、続発性頸腺結核、穿破して排液の止まないもの。
〔かんどころ〕急性化膿性以外の慢性化した硬い大きな頸部の腫瘍に用いる。手術後の再発防止にも使うが、悪性腫瘍では一時の延命効果しか期待できない。

〔応用〕本方よりも少し薬味の少ない同名の処方が李東垣の創方の中にある。おそらく後世追加されて現行のような多種の処方になったものであろう。本方は連服しなければ効がなく、おもにリンパ腺腫瘍に用いるのであるが、結核性の小さなものである場合には小柴胡湯加桔梗、石膏、夏枯草に適し、化膿菌による急性のものには托裏消毒飲または内托散がよい。梅毒に起因する腫瘤やガンの転移などは本方よりも紫根牡蛎湯を用いる機会が多い。甲状腺腫にはしばしば偉功を奏する。これはヨード分を含む海藻が配されているためであろうか。ただし、バセドー病には期待するほどの効果はない。あくまで硬きこと石の如く、巨大なること耳肩におよぶという原典の主治に従わなければならない。本方で問題なのは遠物(稀用生薬)の昆布と海藻である。現代の中国ではわが国と基原を異にするものを使用している。私は昆布は塩気のない板昆布(おでん用)を、海藻はホンダワラの乾燥したものを使用するが、なければ塩ぬきしたヒジキが最もよい。昆布はワカメに代えてもよい。

〔治験〕二十四才の未婚の女性、二十才の時から左右ともに頸腺結核におかされ、何回も切開手術を受けたが続発を繰り返し、患部は鶏卵数個を連ねた如く腫脹し、鎖骨窩部に硬く癒着していた。摘出標本では乾酪様変性と石灰化の傾向があり、全身の衰弱はそれほど顕著ではない。他にみるべき症状もないので本方を与え、約八ヶ月で腫瘤は半分ほどに小さくなってそれ以後続発はみられなかった。しかしその後も根気よく連用したのにもかかわらず、認むべき効果もなく一年間で服薬中止。三年後の遠隔成績では服薬当時のままで何らの変化もみられなかった。

石原 明


    24. 〔方名〕紫雲膏(しうんこう)

〔出典〕華岡青洲伝(春林軒膏方)
〔処方〕香油500 蜜蝋150~200 猪脂10~15 当帰50 紫根50
〔製法〕油を加熱し、蝋と脂をいれてとかし、当帰を入れてから火を弱め摂氏140度になったころ紫根を入れ、程よい紫赤色になったら適温の時に麻布でこしてカスを去り、容器に移し冷やして固め保存する。
〔目標〕肉芽形成促進、化膿防止、瘢痕形成予防、皮膚乾燥の回復、色素沈着の除去。
〔かんどころ〕創面の滲出物が多く、著しく湿潤している場合には適さない。化膿を抑制し痛みを止め肉を上げる効があるので外傷、熱傷、凍傷、潰瘍、壊死などで右の禁忌以外のあらゆる創面に貼附してよい。痔や脱肛にも奇効があるが色素のため肌着が着色するから注意を要する。
 また本方は製剤する時の温度と湿度に大いに関係し、発色の鮮やかさと香気の良否が薬効を大いに左右するから選品に大いに気をつけなければならない。最低の材料として局方ゴマ油、局方蜜蝋、局方豚脂を用いるが、最良の品を得るならば中華料理用の香油を脱臭ラード、大深当帰と肥大で虫のつかないうるおいのある紫根でなければならず、温度も必ずしも140度にこだわらない。また硬度も年間ほぼ一定すべきである。

〔応用〕漢方外科の代表的膏剤で、切創にはそのまま貼附するが、挫滅創や汚染した創面、擦過傷で滲出液の多い時には用いない。熱傷はすべて適応であるが、水疱の上からは無効であり、破れて化膿の兆あれば伯州散を適量加えて混和したものを貼附する。凍傷では第二度、三度の患部に用い、フルンケル、カルブンケルの自潰後に肉芽の新生を早めるのによい。痔疾患にはあらゆる場合に用いると苦痛を軽減する。
 下腿潰瘍、脱疽、ヒョウ疽、膿瘍による組織欠損にも応用する。

〔類方〕鯉鱗紫雲……乳頭炎、咬傷など乳頭のあらゆる外傷に貼附する。
〔処方〕鯉のウロコの黒焼きを粉末とし適量を紫雲膏と混合。
〔附記〕製法不良、または保存不良で油が酸敗し異臭を放つものは用いてはならない。長期間を経過して変色したものも同様である。

石原 明



     25.〔方名〕十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)

〔出典〕華岡青洲伝(春林軒方集)
〔処方〕柴胡2.0 茯苓2.0 川芎2.0 桜皮2.0 生姜2.0 桔梗2.0 防風1.5 独活1.5 荊芥1.0 甘草1.0
〔目標〕滲出性体質、膿毒物質の蓄積、亜急性皮膚炎、顔面や頭部の壅塞感、掻痒感、リンパ腺腫脹、蕁麻疹、水疱疹、乾性皮膚疾患。
〔かんどころ〕化膿性疾患の初期で、発赤、腫脹、疼痛、悪寒、発熱の一段落した後、すなわち初め葛根湯で発散させてから本方を用いる。このような場合は煎剤がよい。体質改善の目的に用いるには散剤を連用する。

〔応用〕本方は太陽病と少陽病の時期にまたがる発表剤で、古方でいえば小柴胡湯証に相当する。明代によく用いられた人参敗毒散や荊防敗毒散などの類方に基づいて華岡青洲が創方した。体内に蓄積して皮膚に病変を来す毒を解して中和させるのが主な目標である。解毒作用をさらに高めるために連翹、石膏、大黄などを適宜加味することもある。亜急性期以後の化膿炎または乾性の皮膚疾患に常用し、アレルギー体質の改善にも欠くことの出来ない処方であるから、アレルギー性眼炎、鼻炎、蓄膿症にも用いる。しかし、アレルギー性の気管支喘息には効かない。この時は半夏厚朴湯や麻杏甘石湯の合方の適応である。皮膚の化膿をくりかえすフルンクロージス、水虫、湿疹、疥癬などの体質改善にも応用する。

〔治験〕四十二才の男。十数年前から両足とも水虫に悩まされ、売薬、新薬、物理療法などあらゆる治療を行ったが一時の効しかなく、病院がよいもしばらく続けたが根治しないので漢方治療を求めてきた。局部は赤く腫れ、皮がむけていたり、膿疱の部分などが混在するが全体としては乾性である。従って本方の適応と考え、煎剤で三ヶ月連服したが著効がない。食養を厳守させて散剤にかえ二ヶ月服用したところ、かなりよくなってが局所の清潔を怠ると再発する。そこでエキス散剤と原末の散剤を等分に混じ一回量二グラム毎食前に用いてみた。これが効を奏し三ヶ月でほとんど全治したが、再発を恐れて患者自身は気候の変わり目には毎年続けて飲んでいるという。三年前の症例である。この例のように本方は剤型をかえると効くことがあるのは興味深い。

石原 明


     26.〔方名〕消風散(しょうふうさん)

〔出典〕外科正宗(明・陳実功)
〔処方〕当帰3.0 石膏3.0 地黄3.0 木通2.0 牛蒡子2.0 蒼朮2.0 防風2.0 知母1.5 胡麻1.5 甘草1.0 荊芥1.0 苦参1.0 蝉退1.0
〔目標〕慢性皮膚疾患、強い瘙痒、滲出物過多、夏季に悪化、痂皮形成、皮膚枯燥、便秘、偏食(酸性食)、口渇。
〔かんどころ〕患部はカサブタが厚いか滲出物が多く、臭気があったり汚くみえる。そして掻くと液が多く出る。患部以外の健康な皮膚も浅黒く荒れ性でカサカサしている。

〔応用〕慢性に経過して何年も再発を繰り返す蕁麻疹、頑固な慢性湿疹で手をかえ品をかえても処方無効のものに長服させると奇効を奏することがある。本方の適応は漢方的表現をとれば湿性の陽証に属する慢性皮膚疾患ということになる。患部がきたなく浸出液に臭気があり、カサブタの出来やすいのは陽に属する。しかし急性または亜急性の軽症の場合なら越婢加朮湯がよく、悪臭強く濃い浸出液が出てカサブタ厚くきたない場合は桃核承気湯が適することが多い。本方と鑑別を要する点である。
 また本方は長期間(半年以上)の連用によってはじめて効をみることが多いのと、処方に稀用生薬があるので煎剤とするよりも散剤またはエキス散剤を用いた方が便利であり、兼用方としても応用出来る。

〔治験〕四十五才の主婦、終戦直後から湿疹がひどく一時は全身にひろがったが、その後は手足の内側の軟部に限局した。冬の寒い季節には少しよいが四月頃から悪化し夏になると眠れないほどひどくなり、口渇と便秘を伴う。あらゆる治療も効なく副腎皮質ホルモンで一時好転したが、翌夏また再発した。そこで局部をみると新旧各病期の症状がいりまじっているので、腹証により桃核承気湯を主方とし、十味敗毒湯と本方エキス散を合方して兼用(一回量二グラム)した。一ヶ月で桃核承気湯が不要となったので中止。その後、散剤だけで八ヶ月連用したら昨年の春以来再発をみない。

〔附方〕消風敗毒散
〔処方〕消風散と人参敗毒散の合方。これは表に風水があり汗によって解すことを目的に中国でよく用いるが、私は十味敗毒湯をとり消風散と合方してエキス散を用い良結果を得ている。

石原 明



     27.〔方名〕十全大補湯(じゅうぜんたいほとう)

〔出典〕和剤局方(北宋・陳師文等奉勅撰)
〔処方〕熟地黄3.5 茯苓3.5 当帰3.5 朮3.5 川芎3.0 芍薬3.0 桂枝3.0 人参2.5 黄耆2.5 甘草1.0
〔目標〕全身衰弱、貧血、食欲不振、削痩、皮膚はツヤなく乾燥、脈、腹ともに軟弱。
〔かんどころ〕大病後または産後、外科手術後の衰弱を回復するのによいが、病勢が著しく活動性のもの、高熱、結核のシェープには用いられないし、服薬後かえって下痢、食欲不振、発熱などがあらわれるものには禁忌である。

〔応用〕本方は血虚を補う四物湯と、気虚を補う四君子湯の合方である八珍湯の効をさらに強化するため、桂枝と黄耆を加え十薬が全くして大いに虚を補すとい方意である。補中益気湯よりも一段と虚し、衰弱と貧血が強い。気血が虚したため麻痺を発した老人病や、大病後の衰弱で視力が減退するもの、下痢が長く続いて栄養失調となり体力のないもの、衰弱による夢精、産後の肥立ち悪く帯下の続くもの、フルンケル、カルブンケル、カリエス、痔瘻などで排膿止まず肉芽不良のもの、脱肛、子宮脱など虚弱に起因するものに応用する。外科手術後の回復促進に用いる機会が最も多く、白血病、悪性腫瘍、悪性貧血にも用いて一時の効をとることがある。肺結核にも用いるが、適応はそれほど多くない。

〔治験〕七十三才の男性、上顎癌が進行し転移もあり右顔面が岩のようになって崩れている。衰弱はなはだしく悪液質を発し、外科的手術も放射能治療も行いない。輸血は毎日しているがヘモグロビン値は6.0より上がらない。予後不良で一ヶ月とはもたないから帰宅してそのまま死を待つよりほかない。家人もすべてはあきらめているが、最後に漢方薬をのませてみたいという強い希望に心動かされ、延命効果しかないことを十分承知させた上で、本方の人参を韓国産の片製を配して投与した。一週間後には元気が出てよく話をするようになりヘモグロビン値は6.5になった。輸血は毎日続行しそれまで6.0以上になったことがないのに、一週間で上昇したことは本方の効としか考えられない。結局三十六日目で死亡したが、割合に体力が回復しいく分の延命効果を認めることが出来た。

石原 明


     28.〔方名〕托裏消毒飲(たくりしょうどくいん)

〔出典〕外科正宗(明・陳実功)
〔処方〕当帰5.0 茯苓5.0 人参3.0 川キュウ3.0 桔梗3.0 白朮3.0 芍薬3.0 厚朴2.0 皂角2.0 黄耆1.5 金銀花1.5 白シ1.0
〔目標〕急性化膿性炎症の発病後数日頃、すでに醸膿している場合には膿汁成熟して自潰を早め、醸膿していない時には消散させる。敗血症の予防。
〔かんどころ〕類方の排膿散及湯は膿瘍の消散と排膿を主とするが本方は敗血症の予防としての消毒を主眼とする。

〔応用〕化膿性炎症は原則として、次の用の順序で薬方を運用することが多い。葛根湯または桂麻湯→小柴胡湯または十味敗毒湯→托裏消毒飲または小建中湯の類方→内托散または排膿散及湯→伯州散兼用
 別の見地からすれば本方より虚して化膿が遷延するものは内托散、さらに虚証あり衰弱が加われば補中益気湯、それよりも貧血と全身衰弱あるものは十全大補湯ということになる。これは原則であって発病部位、合併症、体質により臨機応変に救急の薬方を撰用しなければらないことはもちろんである。膿があるか否か不明の際には本方で様子をみるに限る。故にフルンケル、カルブンケルはもとよりリンパ腺炎、筋炎、カリエス、耳漏、中耳炎などに応用することが多い。

〔治験〕二十四才の女子大生、大学院研究室で突然右下腹部に激痛を訴え、立ってもいられないといってきた。数日来カゼ気味で悪寒発熱もあるという。白血球数8500,37.5度の発熱、腹部は緊張してとくに右腹直筋が強い。虫垂炎を一応疑ったが腹診上それらしき所見もなく、骨盤腔内の炎症でもない。他に著変がないので芍薬甘草湯二貼与えて半日後の経過をみた。再診すると腹の緊張と疼痛は軽減したが、右足を伸ばして仰臥することが苦痛だという。他に変わったところもない。腸腰筋炎らしく思われたので托裏消毒飲を投与して毎日様子をみていると次第に快方に向かい、一週間後に右腎愈の辺に発赤と波動を皮下に認められるようになった。思い切って穿刺してみると膿汁約30ccを吸引。三日後また穿刺して3ccを得、前方を続服。三回目の穿刺(五日後)では何も得られず、圧痛も腫脹も著明でない。前後三週間の服薬で諸症状全く去り、その後三年経過するが未だに健康である。

石原 明



     29.〔方名〕当帰飲子(とうきいんし)

〔出典〕済生方(宋・厳用和)
〔処方〕当帰5.0 地黄4.0 芍薬3.0 川芎3.0 蒺藜3.0 防風3.0 何首烏2.0 荊芥1.5 黄耆1.5 甘草1.0
〔目標〕激しいそう瘙痒、分泌物少なく、皮膚枯燥、発疹(慢性)、虚弱体質。
〔かんどころ〕老人や虚弱者の皮膚掻痒証、乾性であることが第一条件、胃腸虚弱で下痢気味のものには適さない。

〔応用〕本方は四物湯の加味方であるから、血虚枯燥がなければならない。類方の温清飲(四物湯と黄連解毒湯の合方)よりは一段と虚し、瘙痒の激しいものによい。しかし四物湯が主になっているので下痢の続いている胃弱のものには禁忌である。本方に苦参を加えるとさらによいことがある。これは苦芥散と合方したことになるからで、陰寒証を認めれば附子を加えるとよい。老人の瘙痒によく応用するが、逆に若年者で体格がよく、頑健で何らの症状がないのに夜間のみ瘙痒を訴え、脈浮なるものには大青竜湯が適する。
 温清飲は本方よりも実証で、上衝多血の瘙痒によく、本方で効のないものは四物湯に荊芥、浮萍(ウキクサを乾燥したもの)を加えた薬方が奏効することもある。

〔治験〕七十四才の男性、発疹はないが皮膚に脂肪がなく、常に激しい瘙痒に悩んでいる。皮膚科専門医にも見放されたので、頼るところは漢方しかないと悲壮な面持ちで来診した。精査すると貧血があり口唇も亀裂して肌は粉をふいたよう。掻くとコケの如くに落屑する。時々掻きすぎて出血することもある。効ヒスタミン剤の軟膏でマッサージするが寸効もなく、石炭酸水の湿布をすると一時楽になるので続けたこともあるが、ネクローゼになると注意されて我慢しているという話である。食欲もあり胃はよいが常習便秘なのでセンナ葉をお茶代わりにしている由。当帰飲子を与え、苦参煎で湿布するように命じた。一ヶ月服薬したらかなり楽になったが、耐えられないほどではないがまだ相当痒いという。本方に苦参1.5を加味した処方に代え、八味丸を兼用とした。八ヶ月でほとんど全治。

石原 明


     30.〔方名〕内托散(ないたくさん)

〔出典〕千金方(唐・孫思邈)
〔処方〕当帰3.0 人参2.5 黄耆2.0 川芎2.0 防風2.0 桔梗2.0 厚朴2.0 桂枝2.0 白芷1.0 甘草1.0
〔目標〕虚証、亜急性化膿炎で自潰または開口するも排膿と病毒の発散が不十分なもの、体質虚弱、体力低下によるもの。同様にして麻疹が発表しない虚寒証に温湿布で外用。
〔かんどころ〕膿瘍の開口しているもの。実証には用いない。

〔応用〕本方は古方の排膿湯と一対になる漢方外科の常用方で、排膿湯が実正で攻撃的に働くのに反し、本方は虚証を補って排膿を促し肉芽を新生させる効がある。別名を内補散、内消散、千金内托散ともいう。いわゆる補托の主剤である。醸膿が弱く発散しにくい場合には反鼻を加味するが、さらに伯州散兼用の方が効果的であり、簡便である。慢性化膿炎で経過の長引く時には本方よりも補中益気湯か十全大補湯の方が適している。
 醸膿と肉芽新生を目的にあらゆる化膿炎症の虚証、とくに中耳炎、耳漏、乳房炎、膿胸、肛囲膿瘍などに応用することが多い。

〔治験〕二十四才の産婦、虚弱体質出産後二ヶ月で鬱滞性乳腺炎を起こしたが、単なる乳腫れと思って母親にマッサージしてもらった。二日たって乳頭が発赤し腫脹硬く熱をもち、肩こり、頭痛を伴ってきた。局所をみると排乳管口に膿点が認められる。触診するにフルクタチオンらしきものが微かに認められたので托裏消毒飲を三日服用させたが、膿瘍すでに大きく切開排膿のほかない。この患者はもともと特異体質で化学療法剤や抗生物質が使えないので漢方治療を求めているのである。外科的に放射状に切開を最小限度に加えてドレーンをおくもその後期待したほど排膿しない。体力消耗があるので内托散に転方。一週間後に膿はすっかりなくなったが創面の肉芽新生が不十分なので、乳汁分泌をも考慮して内托散のほかに伯州散加露蜂房霜を兼用した。一ヶ月で全治し切開創もそれほどの瘢痕にならずにすんだ。それよりも乳汁分泌が左右とも同じで、乳腺がネクローゼに陥って機能を失った部分がある筈なのに、健康部が代償的にはたらいていることである。本例は鬱滞性乳腺炎のうちに処置すべきものを不潔な手でマッサージしたために細菌感染を起こしたものであろう。膿汁を検査したら連球菌であった。

石原 明